昔は松の木 御番所
- 2011/06/28(火) 00:59:26
私の生家から半径100m以内のごくせまい範囲の話で恐縮である。
昔の写真を見ていたら「御番所の松」があった。御番所とは現在の延岡市土々呂1丁目(東浜)の南端の地名である。せいぜい半径50m以内のとても狭い地域である。柳田国男は日本の特徴として地名が細分化され狭い面積の割には過剰に多くなった、と言っているがまったくだ。
下:赤丸で囲んだところが御番所。地図は戦前のもの。(クリック拡大)
現国道10号線はなく、当時の国道は御番所から鉄道を越えて内陸に入り伊形を経由する。
御番所の由来はその名のとおり、昔、藩政時代に「番所」が置かれていたことによる。街道の関所ではなく、港に入港する船の見張りが主だったらしい。我々が子供のころまではこの地名は使われていたが、現在ではたぶん死語となっている。
下:御番所の松(クリックで拡大)
人力車と思しきが見えるが、鉄道の腕木信号があるから日豊線開通後である。柵の上に鉄道がある。向こうに上がっていく坂道は流川につながっているはず。写真の右に御番所踏み切りがある。この道は旧国道である。
鉄道に覆いかぶさるように松の巨木がある。
私はこの松は見たことがない。いつなくなったものだろう。
私の家族や親戚は戦前から戦後にかけては満州で暮らしていた。母は、戦後引き揚げて土々呂に久しぶりにもどったら、あちこちの松の大木がなくなっていて故郷ではないような気がしてさびしかった、と言っていた。
終戦直後の昭和20年9月の枕崎台風は上陸時になんと916.6hPaもあったという猛烈な台風で、宮崎県の死者なんと82人。敗戦の混乱で被害の写真や記録があまり残っていないが、おそらくこの台風が風光明媚だった土々呂の松を根こそぎ倒したものだろう。
下:昭和12年。土々呂小ウラの山から土々呂湾を見下ろす。海水浴場の上には松林がある。いずれもかなりの大木。これも枕崎台風で倒れたと思われる。(クリック拡大)
下:昭和30年代の写真。左端は土々呂小学校。10号線の姿がすでにあるので昭和35年くらいか。これで見ると2本の松の大木が見える。上の写真の松林から残ったもの。
10号線の左の松は驚くように高く、今なら保存巨樹に選定されるような巨木。昭和40年代まで残っていたがマツクイムシにやられ伐採された。右側の松は私は見ているはずだが記憶がない。よく見るとこの木は10号線の中に生えているようだ。おそらく10号線が全通するときには伐られたのではないか。
これらの松はおそらく江戸時代に街道沿いに植えられ、ずっと延岡市街まで続いていたはずである。昔の日本の景観を特徴づけるのは松の木であった。いまやそれは杉の造林である。松の景観を懐かしがって、杉の味気なさを嘆くのは時代錯誤なんだろうか?そんなことはあるまい。絶対にスギはつまらない。花粉症の原因でなくたってスギは撲滅したい、と個人的には願望している。
私の父方の祖父は明治時代の馬車引き、現在で言えばトラックドライバー、で槇峰鉱山の銅を土々呂の港まで運んでいたという。いつも通りがかるこの場所は松原越しに穏やかな入り江が見通せる素晴らしい景色だったので、ここに居を定めた、と聞いている。日豊線の築堤も国道10号線もなかったころだからそれはのどかで美しい浜だっただろう。
下:同じ場所、同じ時代。土々呂小のグラウンドで児童が輪になっている。左端は上の写真と同じ松林。
右端の山越しにちょっとだけ松の木の枝が見えるのでこのころまでは御番所の松はあったことがわかる。(クリック拡大)
下:現在の御番所踏み切り近辺。山は一ヶ岡団地で造成され低くなるし、日豊線の山側を切り取って県道が通ったので昔とはまるっきり景観が異なる。鉄道と県道にはさまれた小さな丘が見えるがあの少し上あたりにあの松の大木があったはずである。
下:「御番所」の由緒ある地名は踏切名にのみその名を残している。
実は国道10号線ができる前、御番所踏切下に私の母方の祖父の屋敷があった。海水浴場の浜に面し、とても景色がよかったという。しかし、戦後の台風の高波で流されてしまった。年代からすると昭和26年のルース台風あたりか。この台風、細島で風速69mを記録する猛烈なものであった。今こんなのがきたら高台の風当たり良好な我が家は確実に吹き飛ぶ。
その祖父の家は再建されず、敷地は10号線の下になってしまった。私の生まれる以前なのでこの屋敷は見たことがない。
下:祖父の屋敷の庭から土々呂湾を望む。昭和26年頃撮影。湾中央の防波堤はなく、砂浜は海水浴場から土々呂桟橋までつながっていた。
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