宗教との戦い---ドーキンス--その3 妊娠中絶
- 2011/10/29(土) 13:16:49
※前回エントリの続き
ドーキンス「神は妄想である―宗教との決別」より
前回も記したように、キリスト教ではカトリックもアメリカのファンダメンタリストも妊娠中絶に厳しい。受精は神の恩寵であり受精した瞬間から受精卵や胚は人間の生命なので中絶は殺人、という立場。それがレイプでできた胚であろうが、ダウン症の染色体を持っていようが例外は認めない。
さらには避妊も否定するとなると人口調節自体が悪となる。今や70億に達した地球人口が200億くらいになってどうにもならなくなった頃、カトリック教会はやっと自身の誤りに気付くだろう。天動説を数百年後に誤りと認め、ガリレオに謝罪した件ではさほど実害はなかったが、人口問題については100年後に気付くようだと遅すぎる。福島の原発よりもはるかにひどい実害が出る。無責任のきわみであるが、宗教者は神を持ち出せば個人の責任は回避されると信じているようだ。
ドーキンスはこの件ではマザー・テレサをこっぴどくこきおろしている。マザー・テレサはノーベル賞受賞講演でこう述べた。「妊娠中絶こそ、最大の平和破壊者です」
ドーキンスは「このような偏った判断力しか持たぬ女性がどうして真面目にノーベル賞に値すると考えられのだろうか?」と書き、彼女を「聖人ぶった偽善者」と断じ、彼女に騙されたくなかったら、クリストファー・ヒッチング著「宣教師の立場」を読むよう薦めている。ちなみにこの本の原題は"Missionary Position"といいそれはダブルミーニングで「正常位」をも意味するから実に辛辣なタイトルである。
ノーベル平和賞の人選は納得のいかないことがままある。科学者の場合にはもともとなじみの無い名前ばかりだから妥当なんだかどうだかサッパリわからないのであるが、平和賞の場合には時々有名人が受賞する。たとえば佐藤栄作、ニクソン、カーター、ゴルバチョフ、オバマなどは「ええっ?彼はいつ平和に貢献したんだぁ?」と違和感を感じる。さては非有名人の場合にも同様の怪しさがあるのかもしれない。マザー・テレサは中学の英語教科書に載り私も「何か知らんが、エライ人、立派な人」というくらいの認識であったが、私はノーベル賞選考委員会の見識よりもドーキンスの方をはるかに信用するので、マザー・テレサに関しても認識を改める必要がありそうだ。
欧米のキリスト教徒は宗教がないと道徳の基準が無い、と考えるらしい。そこから「日本人はどうやって善悪の基準を判断しているのか?」という疑問を呈する。アメリカで宗教的な情操がモラルの基準となっているのを見た新渡戸稲造はそれに換わるものは日本では武士道である、と考えた。しかしキリスト教も武士道もイスラム教もない世界各地で人類は似たようなモラルを持つのである。殺人、窃盗、詐欺、姦淫などは宗教に関係なく良くないのである。ただしモラルは「時代精神」の産物だから時代とともに推移し、変化はより人間的な進歩的な方向への遷移を遂げている。宗教は「時代精神」の変化、科学の進歩をはるか後から後追いしているだけである。地動説、進化論、人種偏見、女性蔑視、基本的人権などなど。
ドーキンスはさまざまな角度からキリスト教の不合理を論じている。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の共通の聖典である旧約聖書についても分析している。
旧約にはさまざまな物語や逸話が出てくる。現代人の常識から見ると、神によって選ばれたはずのアブラハムやロトの行為ははなはだしいインモラルに満ちている。それを求める神もかなりの気まぐれで狭量で一貫したモラルを持っているようには見えない。聖書は随所で現代でも規範足りうるモラルを説いているのであるが、首をかしげたくなるようなインモラルも同様に説くのである。特に女性蔑視がひどい。
だから聖職者は聖書から現代のモラルに合う部分を引いてきて「聖書にもこう書いてある」と説くわけだ。しかし、彼が聖書からどこを引いてくるか、と判断する時にすでに聖書に依拠しない別のモラル基準が介在せざるをえない。彼らは聖書の都合の悪い部分は「それは象徴的表現であって事実として考えるべきではない」と反論するが、ではどこが事実でどこが事実ではないと判断する基準はどこにあるのだろうか? またしても聖職者たちは聖書に依拠しない別の高度な判断基準を参照している。自分でその身勝手さに気付きもしない。
聖書は古代説話のアンソロジーに過ぎないので一貫性もなく後世の誤記や創作も多々ある。それを絶対的な真理とすること自体に無理があるのであるが、聖書根本主義は聖書の一言一句が真理である、とするのであるからジレンマを抱え込むのである。ドーキンスはことさらに聖書を有難がる人こそ聖書を通読していないのではないか、と言っている。
ドーキンスは神のいない理由もくどくどと書いている。
これはエホバのエントリで既述であるが採録。
創造論の論理。目の構造はいかなカメラも及ばないほど精密で優れている。ちゃちなカメラですら設計者がいるのであるから目が設計者なしで自然にできる訳が無い。すなわちそこに創造主がいるのである。この例の目は心臓でもトンボの飛翔力でもミトコンドリアのエネルギー変換でもなんでもいい。※ただし神は設計ミスもするらしい。網膜で受け取った光の情報を脳に伝える視神経や網膜血管は網膜の上ではなく下に配置すれば眼底出血による障害を防げたのに。カメラで言えばCCDの表側にプリント配線を施す様なもの。初歩的な欠陥である。これがカメラや自動車だとリコールの対象になるのだが。
ドーキンスの論理。宇宙の天体を管理し、地球上何千万種の生物を設計し、全キリスト教徒何十億人の日々の祈りや願いに耳を傾け、彼らの運命どころか、地獄行き非信者ご一行様ツァーの手配にも心を配るといった世界最速のコンピュータもなしえないような複雑な計算を四六時中なしえるとすれば、そんな存在はきわめて複雑な存在でなければならない。目のような複雑な構造が自然にできない、と考えるならば神のようなさらに桁違いに複雑な存在もまた自然に発生することはありえない。そこには神を創造したのは何者か?というさらなる疑問が退行的に連鎖するだろう。
下:エホバの「生命-それはどのように存在するようになったか」より。目の構造の巧妙さは彼らの創造説の重要な論拠なので必ず取り上げられる。
ドーキンスは宗教がいかに発生したか、という点でもさまざまな考察をしている。詳しくは本書を参照して欲しい。
宗教が発生する現場の記録として、カーゴカルト(積荷信仰)の例を上げている。デイビッド・アッテンボローの「楽園の研究」を典拠として述べている。
カーゴカルトとは西洋文明と出会った未開人が白人を神の使いと見たり、船や飛行機から搬出される文明の利器が神からの贈り物であると解釈したりするところから生まれる信仰である。未開人にとって彼らとは隔絶した進歩をとげた文明や文明の利器は魔法や神業としか理解できないから、それも無理はない。
ニューギニアをはじめとした南太平洋一帯で19世紀から第二次大戦期にかけて多数のカーゴカルトが別々に、それぞれ独立的に発生したが、どれも似たような経過、形態を持ったという。すなわち新たな信仰はたやすく生まれるということ。
現在大勢力を誇る宗教も発生時にはごく小さいグループの怪しいカルトだったりするわけだ。天理教なんかはそのような来歴がはっきりしている大教団の代表ではないだろうか。キリスト教だってイエスの頃は似たような小さなカルトだっただろう。
下:カーゴカルトでは飛行機や滑走路の模倣品を作る。
滑走路脇には管制所もどきの小屋を作り、木で作ったヘッドフォンの模倣品を着用して踊ったりする。どうやら原住民たちは太平洋戦争時の米軍の巨大な物量に「神」を見たようだ。日本軍の物量は乏しかったからなぁ。
この本に限らず、ドーキンスは子供への宗教の押し付けがいかに害悪かを訴える。
日本ではどうだか知らないが、多民族化が進んだイギリスではキリスト教の子供、イスラム教の子供、ヒンズー教の子供が学校で同席することは珍しくない。ドーキンスはこの「〜教の子供」という考え方を問題にしている。「〜教の子供」というところを例えば「マルクス主義の子供」「ケインズ主義の子供」「無神論の子供」「不可知論の子供」などと置き換えてみた時には誰しも異様である、と考えるだろう。幼い子供がそんなものを理解したり、良し悪しを判断したりできるはずがないからである。宗教だって同じはずである。しかし宗教の場合は例に挙げた「〜主義」と違い、大人が強引に注入することに社会が異議を申し立てない。宗教が社会の中で何らかの奇妙な特権を持っている。少なくとも日本ではキリスト教を標榜する学校は許されてもマルクス主義を基本理念とする学校は許されないだろう。
そもそも子供と言うものは親や年長者の言うことを素直に聞く、という進化的な適応をしている。太古、危険に満ちた自然の中で暮らした初期人類社会で、親の言うこと、長老の言うことを聞かないような子供は危険に直面し淘汰されて子孫を残しにくかった。その結果、親の言うことを素直に聞く子供が生き残る傾向がどんどん強まった。現在の子供がみんな大人のいいなりになるのはそのためだ。
宗教的環境で育つ子供は素直に宗教を受け入れる。それが世代から世代に受け継がれていることが大宗教の存在を支えている。子供を宗教から遠ざけ、成人以降に自分で思想や信仰を選択できるようにすれば、宗教は一世代か二世代もするうちに急速に縮小するだろう。ドーキンスもうらやむそんな理想的な非宗教的環境は意外と日本にあるのかもしれない。
豊臣・徳川・明治政府とキリスト教に不寛容な政権が300年も続き、欧米の植民地にもならなかった日本は一神教の影が薄い。今となってはこれは幸いであった。
追記2012年8月9日
このエントリに一件のコメントを頂いた。
が奇妙なコメントなので返答ではなく、ここで一言。
コメントはマザーテレサの業績とコメンターの私見を述べたもので、私のエントリに対する何らかの評ではない。調べてみると、このコメンターは多くの方々のブログでマザーテレサへの言及があるところに全く同じコメントをコピペで投稿している。こうなると一種のスパムという感があるのであえて返答はしない。キリスト教関係先にスパムを送る有名人、あるいは迷惑人らしい。
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マザーテレサさんのこと
題 : マザー・テレサさんのこと
.
マザー・テレサさんが、初めて、インドの社会に入って行っ
た時は大変でした。
彼女にあったのは自分の志(こころざし)だけ。
彼女を受け入れたのは、インドの「ヒンズー教の方たち」で
した。
彼女の活動のための家を貸し、彼女の活動のための手助けの
人達が駆け付けました。
元々、マザー・テレサさんのやりたい志の事は「ヒンズー教
の方達はしていました」。
だから、正確に言えば、「マザー・テレサさんが、志を同じ
くする人たちの中に入って行った」なのです。
ヒンズー教の方達は、多神教。
イエス・キリストやマリアもヒンズー教の神々の一人として
いる宗教。
この様な宗教教義の面からも、マザー・テレサさんもスムー
ズに受け入れられました。
一神教のキリスト教には「異教徒を殺せ」の教義がある様に、
異教徒を忌む宗教ですので、この様なスムーズな受け入れとは
ならなかったでしょう。
マザー・テレサさんは、最初、キリスト教からは、まったく、
孤立無援。
手助けはヒンズー教の方達だけでした。
彼女が、アメリカの映画の題材にされ、注目されるようにな
って後、キリスト教が、今までは何も彼女に注目せず、手助け
もしなかったが、世界の注目を集める様になってから、彼女と
行動をする様になった。
今、キリスト教は、彼女を「広告塔」にしていますが、そし
て、ヒンズー教の方達は黙っていますが、真実は、この様な経過
をたどった。
マザー・テレサさんが「ノーベル平和賞」を受賞しましたが、
同時に「ヒンズー教の方達も受賞すべき」でした。
ノーベル賞選考委員はキリスト教徒だけ、その点、「お手盛
り」となった。
インド政府は、彼女が亡くなられた時、国葬として大きな葬儀
を行ないましたが、キリスト教組織にも、この様な、大きな度量
が欲しいところです。
また、彼女のキリスト教は、ビンズ‐教との共同生活から宗教的
にも影響され、彼女独特のキリスト教となっている。ヒンズー・
キリスト教とか、テレサ・キリスト教と呼ぶべき形となっている。
INCORRECT SECURITY PASS